オリンピック2連覇や度重なる世界記録更新など、史上最高のマラソンランナーと呼ばれるエリウド・キプチョゲ選手。彼が成し遂げた偉業の数々は枚挙に暇がないが、特に異彩を放っているのは、人類初のフルマラソン2時間切りを実現したことではないだろうか。2019年10月12日にウィーンで行われた「イネオス1:59チャレンジ」で、キプチョゲ氏はフルマラソン42. 195㎞の距離を1時間59分40秒というタイムで走り抜けた。世界陸連では非公認記録ながらも、長い間人類の限界と考えられていた壁を打ち破った功績は例えようもなく大きい。

そのときのキプチョゲ氏は、いつものレースのように「独走」したわけではない。延べ41人の選び抜かれたエリートランナーたちがこのプロジェクトに参加し、5㎞ごとに集団で入れ替わる方式でペースランナーとしてキプチョゲ氏をサポートしたのだ。前方には常にペースランナー5人がV字型にフォーメーションを組み、後方には2人が配置。その目的はスピードとペースを維持することの他、キプチョゲにかかる向かい風の抵抗を極力少なくすることにあった。加えて、ランナーたちの前方には電気自動車が先導していた。

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半世紀前に風除け効果を主張した研究結果を証明した新研究

向かい風の抵抗を減らすため、他のランナーの背後につく作戦はマラソンのテレビ中継などでよく目にする。しかし、それにどれだけの効果があるかについて、数量的に証明した研究は意外に少ない。最初の例だと考えられているのは、英国の生理学者グリフィス・ピュー氏が1970年に発表した研究(*1)である。

*1. Oxygen intake in track and treadmill running with observations on the effect of air resistance.

ピュー氏の研究は風洞内にトレッドミルを設置する方法で行われ、5,000mを走るエリートランナーは向かい風に抵抗するだけで、自身のエネルギーのうち8%を費やしていると発表。また、風除けを活用することで、フルマラソンのタイムを理論上は6分以上短縮できるとも述べた。ただ、この研究の被験者はわずか1人のランナーであったため、この論文で述べられた結論の信憑性に疑問を投げかける声も多かった。

ところが最近になって、空気抵抗とランニングパフォーマンスの関連について新たな研究(*2)が「応用生理学ジャーナル」(Journal of Applied Physiology)の2022年9月号で発表された。

*2. The metabolic cost of emulated aerodynamic drag forces in marathon running.

この研究では、12人の男性ランナーがトレッドミルを用いて5分間のタイムトライアルを6回、セッション毎に5分間の休憩を挟んで行った。指定されたペースは時速12~16kmということで、フルマラソンのタイムに直すと2時間40分から3時間30分程度のペースになる。素人としては速いが、エリートランナーのレベルではない。ランナーたちはゴム製のストラップ腰に装着し、これを後方に引っ張られることで、横方向にかかる空気抵抗がシミュレートされた。

新研究の結論は、ピュー氏の研究結果が概ね正しかったことを証明するものだった。ランナーから横方面の抵抗をゼロにした場合、体重の 1% ごとに 6% のパワーを増加させることができるということだ。これを体重52kgでフルマラソンを約2時間のペースで走るキプチョゲ氏に当てはめると、短縮できるタイムは3分42秒から5分29秒の間になるとも述べられている。

市民ランナーにも風除け効果はある

さらに興味深いことに、研究者のひとりが所属する米国コロラド州立大学ボルダー校のニュース・リリース(*3)は風除けの効果は、エリートランナーだけのものではないという談話を紹介している。

*3. Drafting can save minutes of marathoners’ times, make official sub-2 possible.

研究者の計算によれば、身長約170cm・体重約57㎏でフルマラソンの平均完走タイムが3時間35分の女性ランナーが、風除けによってタイムを5分短縮できるのだそうだ。ちなみに筆者の性別は異なるが、体重とタイムはほぼそれくらいである。なんとも魅力的な話だ。

トップエリートから初心者まで、どのレベルのマラソンランナーにも風除けの効果はあるとのこと。次回のマラソンで自己タイム更新を狙うランナーは、なるべく他のランナーの背後について走ってみてはいかがだろうか。もっとも、風除けの意図を悟られれば、あからさまに嫌な顔をされることは覚悟しないといけないだろう。あくまで自己責任となるが、試してみても良いかもしれない。

By 角谷 剛 (かくたに ごう)

アメリカ・カリフォルニア在住。米国公認ストレングス・コンディショニング・スペシャリスト(CSCS)、CrossFit Level 1 公認トレーナーの資格を持つほか、現在はカリフォルニア州内の2つの高校で陸上長距離走部の監督と野球部コーチを務める。

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