剣道は、竹刀で相手を打つ武道です。そうは言っても、相手のどこを打っても良いわけではなく、部位が決まっています。打つべき部位は、相手の「面」「小手」「胴」「突き」の4つです。これらのどの部位を打っても「勝ち」となります。例えば「面」を打ったから3ポイントとか、「小手」を打てば1ポイントのような、打った部位による価値の差はありません。「面」「小手」「胴」「突き」の価値は同等です。
しかし、多くの剣道家は「面」を打つことに対して、非常に強いこだわりを持って稽古に取り組みます。どの部位を打っても勝ちなのに、「面」を打つことに強いこだわりを持って稽古に取り組む。なんだか、整合性の取れない行動のように思いませんか?どの部位を打っても同等に勝ちなのだから、「面」にこだわる必要はないのでは…そう思われる方も多いはずです。
今回のコラムでは、なぜ剣道家は「面」を打つことにこだわるのかについて、私なりの考えを書かせていただきます。剣道の魅力にも通じる話ですので、どうぞお付き合いください。
目次
「面」は剣道の基本
剣道を習い始めた初心者は、どの部位の打ち方を最初に教わるでしょうか。それは「面」です。恐らくすべての稽古場所で、「面」の打ち方を最初に教えていることでしょう。「小手」から教える剣道教室や、「胴」から打たせる剣道道場があっても良さそうなものですが、必ず「面」から教えているはずです。
また、剣道の稽古では、相手を立てずに竹刀を振る「素振り」という稽古法があります。この素振りでも、相手の「面」を打つ場面を想定して竹刀を振ることがほとんどです。剣道において「面」を打つことは、基本中の基本と言えます。
ここで皆さんも一緒に、「面」の打ち方をイメージしてみましょう。竹刀を持って、頭上に真っ直ぐ振りかぶってください。振りかぶった竹刀を相手の頭部に向けて、真っ直ぐ振り下ろします。そして、竹刀を振り下ろすと同時に、振り下ろした竹刀が相手の頭部に届く距離まで右足を踏み出します。これらの動作は、言葉にすると簡単に思えるかもしれません。しかし、実際に相手と対峙した状態で行おうとすると、なかなかに難しいはずです。
「面」には覚悟が求められる
それでは、相手と対峙している場面を想像してみてください。相手は、こちらに竹刀を向けて構えています。その相手に対して「面」を打ちにいってみましょう。竹刀を頭上に真っ直ぐ振りかぶります。自分の竹刀は天井の方を向いてしまいましたが、相手の竹刀は自分に向けられたままです。自分の竹刀は頭上にあるので、相手から向けられている竹刀を払い除けることはもうできません。無防備な状態になってしまいました。
ここからが怖いのです。振りかぶっている自分の竹刀を相手の頭部に届くように振り下ろすには、相手に向かって踏み出し、距離を詰める必要があります。しかし、相手に向かって竹刀を振り下ろしながら踏み出すと、相手の竹刀は自分に向けられていますから、相手の竹刀は自分の体に突き刺さってしまいます。「面」を打つ約束で稽古するときなら、打たせ役の相手は竹刀が突き刺さらないよう配慮してくれるでしょう。しかし、実戦では相手は打たせまいとするので、こちらに配慮するはずがありません。相手の「面」を打ちにいこうとするときは、相応の覚悟が必要になってくることが分かると思います。
一方、「小手」「胴」「突き」は少々異なります。竹刀をこちらに向けて構えている相手を、もう一度想像してみましょう。その相手の「小手」を打ちに行きます。「小手」は前腕半分の手首側が打つべき部位。「小手」は「面」よりも、自分に近い距離にあることが分かりますね。「小手」は「面」を打つときのように大きく踏み出さなくても、自分の竹刀が届く距離にあるため、小さな動作で打つことができるはずです。自分が無防備に晒される状態が少なく、相手からの攻撃を受けるリスクが低いとも言えます。リスクが低ければ、それだけ恐さも軽減されるでしょう。
「突き」の場合は、自分の竹刀は常に相手に向いています。竹刀が常に相手に向いているということは、「面」のように竹刀を振りかぶって無防備状態にならずに済むということです。「小手」と同様、「面」を打つよりもリスクが低いと言えますそして「胴」を打てる場面は、相手が竹刀を振り上げたときです。相手は竹刀を振り上げているので、一瞬は無防備状態になっています。これなら怖くありませんね。
このように、「面」以外の部位を打とうとするときは、苦し紛れでも逃げ腰でも打てます。一方、「面」を打とうとするときだけは、強い意志と覚悟が必要です。つまり、打つべき部位の中で、「面」を打つことがもっとも困難と言って良いでしょう。
困難に取り組むことに価値がある
剣道の先生の中には、突き詰めれば「面」一本打てればよいと教える人もいるそうです。剣道は相手に竹刀を当てること、相手に竹刀を当てられないことも重要ですが、それよりも、強い意志と覚悟を決めることが大切だという意味なのだと私は解釈しています。剣道家の多くが「面」を打つことにこだわって稽古する理由は、困難なことにこそ取り組む価値があるという考えが根底にあるからなのでしょう。だからこそ、「面」を最初に教わるのです。
私は、この困難なことにこそ取り組む価値があるという考えが育まれることが、剣道の魅力の一つだと考えています。相手に勝つだけなら、もっと近い道があるはずです。それでも、あえて困難な道を選ぶことに価値を見出そうとする。それは、剣道が戦闘術から「道」に昇華した証と言って良いでしょう。私は、このような剣道の奥深さに魅了されています。
剣道LABO®︎代表・剣道ファシリテーター。自身の剣道経験と映像編集技術を駆使し、社会人剣道家の上達をマンツーマンでサポートしている。東京・神奈川・千葉・埼玉にクライアント多数。全日本剣道連盟 錬士七段。1976年生まれ。