スポーツ選手のセカンドキャリアは多様だ。特にメジャースポーツの選手については、その進退についてメディアで取り上げられることもある。しかし第一線で活躍した選手の“その後”に、カメラが向けられることは決して多くない。しかし、選手一人一人の人生は永く続いていく。今回は元Jリーガー・深川友貴氏に、競技引退後の活動などについて詳しくお話を伺った。
深川氏は当時のことを、「現役時代、引退後のことなんて考えたこともなかった」と振り返る。チームやファンから与えられた「応援される環境」を“当たり前”だと思っていた。そんな深川氏は現在、健常者も障がい者も年齢・性別・国籍など関係なく繋がれるオンラインサロン『ふかともインクルーシブLab』を運営し、さまざまな障がい者サッカーやスポーツイベントの練習会に参加。そして自らの経験をもとに、障がい者との繋がりやセカンドキャリアに関する講演などの活動の軸として全国を飛び回っている。
「ストレスなく活動していけるようになったのも、ここ2〜3年のことかな」と話す深川氏。プロサッカー選手を引退してからは、自分の価値を模索し続ける日々が続いた。華々しいプロサッカー選手の舞台から、紆余曲折を経た先に見出した深川氏の“未来にはせる想い”をお伝えしよう。
目次
引退後の葛藤、自分の価値を模索し続けた日々
いつも笑顔で人を迎え入れ、軽妙なトークで周りを楽しませてくれる深川氏。プロサッカー選手の時代を振り返り、はにかみながら次のように話してくれた。
「選手のときはそれぞれの考え方がある。例えば適当にやってチャラチャラしていても、引退したらただの社会を知らない兄ちゃんだからね。」
深川氏は1995年にセレッソ大阪とプロ契約を結んでFWとして活躍し、その後は1998年にコンサドーレ札幌へ移籍。2002年に水戸ホーリーホックでプレーして同年に引退。翌年には古巣であるコンサドーレ札幌の高校生チームからコーチの打診を受け、これを2010年まで務めた。
一見すると、順調なキャリアを築いているように思えるかもしれない。しかし深川氏は、常に「何かが違う」という想いが消えなかったようだ。Jリーグチームのコーチは引退後の役職としては申し分もなく、給料も保証してくれる。しかし、現役時代のように大観衆の前でプレーすることはなく、裏方作業で輝ける自分を描けず、自分の価値を見出せずにいた。
「今考え直してみれば、Jリーグクラブのコーチは生活を保証してくれるありがたい立場だったかもしれない。しかし、当時はその与えてくれた“当たり前”に気づくことすらできなかった。」
と語る深川氏。そんな葛藤が続いていたある日、コンサドーレ札幌に現在へと繋がる一通の問合せメールが届いた。
純粋にサッカーと楽しむ、その姿に芽生えた新たな思い
ある日、コンサドーレ札幌に「デフサッカー(聴覚障がい者サッカー)チームにコーチを派遣してくれませんか?」という問合せが届いた。送り主は、チームのマネージャー兼手話通訳の田村直美氏。彼女は、後に深川氏と聴覚障がい者とを繋ぐこととなる。
場所は北海道苫小牧市。その依頼が深川氏の耳にも届いた。「最初はどんな感じか分からないけれど、社会貢献にも繋がる」と、コンサドーレ札幌や当時の高校生チームの四方田(よもだ)修平監督の後押しもあって派遣されることになった。
当日、指導開始は午後1時の予定。昼食をとっていなかった深川氏は、練習予定地の近くで腹ごしらえしようと、午後0時頃にコンビニの軽食を片手にグランドへ向かった。するとデフ選手(聴覚障がいを持つ選手)たちは開始時間前にもかかわらず、すでに全員がグランドで練習していた。グラウンドは深川氏がプレーしていたような整備されたものではなく、草がぼうぼうに生えてゴールも錆びている。それでも選手たちは懸命に練習しており、その姿を見た深川氏の胸は熱くなった。こんな光景を目の前に、軽食を食べてなんかいられない。すぐさま手話通訳の田村氏と共にグランドにかけ寄ったという。
深川氏の姿に気がついた選手たちは、目を輝かせた。Jリーグ時代の活躍もさることながら、高校時代には道内のサッカー強豪高校・室蘭大谷高等学校で破竹の勢いを見せた深川氏。一学年上で現在は車椅子バスケの日本代表ヘッドコーチを務める京谷和幸氏と、「道内敵なし」と言わしめるほどその存在は知られていた。特にサッカー好きな北海道在住の選手たちにとってはスーパースターであり、深川氏に対して多くの質問が飛び交った。
当初、終了予定は午後3時だった。しかしグラウンドの選手たちはこれを3時間も越え、午後6時まで夢中になって一緒にサッカーをした。長時間に及んだ理由は熱意だけではない。デフ選手からの質問を手話通訳の田村氏が音声で言葉にして深川氏に伝えるため、通常の2倍の時間を要したのだ。このやり取りについて、深川氏は次のように話す。
「手話通訳の田村さんがいてくれたから、言葉の壁も越えられる。手話通訳という仕事の大変さと、感謝の気持ちが強く芽生えた。」
そして日没も近く、終わりの時刻が訪れる。指導は最初から1回のみの契約と決まっていた。名残惜しそうに、今にも泣きそうな顔をする選手たちを目の前にして、深川氏の口から出た一言は「あ…、また来ますね」だった。その言葉で、また一瞬にして選手たちに笑顔が戻った。
「こんなにも純粋にサッカーを楽しんでいる人たちがいる。もちろん、プロ選手もサッカーが大好きな人ばかりだけれども、上を目指すというより心からサッカーを楽しんでいる。そんな人たちに出会えて、『この人たちと一生付き合っていきたい』って思った。こんな自分でも、必要としてくれるのなら。」
深川氏の心に、これまでにない新たな思いが生まれた。
やっと見つけた居場所から一転
一般的に障がい者スポーツは組織の運営や団体など、資金が潤沢なところは少ないと言われている。深川氏はデフサッカーの指導者としてコンサドーレ札幌から派遣され、普段通りの給料も保障される中で、サッカーを楽しむ人々に囲まれる日々が続いていた。
そんなある日、ふと過去の出来事が蘇った。それは小学校4年生の頃、バス停近くで耳の聞こえない女の子が話しかけてきたときに無視してしまった記憶。きっとその子は道を尋ねたのであろうが、はっきりとした言葉にもならない声に驚き、逃げてしまった過去である。
「もし、その当時の女の子がデフサッカーのコーチとしての活動を見たとき、『昔、無視したくせに』と思われていたらどうしよう。」
深川氏はこんな迷いのあるまま関われる立場ではないのではないかと考え、思い切ってデフ選手たちにこの過去を打ち明けた。すると拍子抜けするほどに、デフ選手たちは軽く受け流してくれたのだという。
「あの時代のあの場所にあるろう学校なら、○○さんじゃない?いいな、そんな当時から友さんに会っていたなんて。」
本心かは分からないし、気を遣ってくれた言葉だったのかもしれない。それでも、その温かい言葉に救われた。「俺はやっぱりこの人たちを応援していきたい」と、改めて思ったと言う。
「その女の子も、今はお母さんになっているかもしれない。昔、自分が差別してしまった事実は消せないし、変えられない。しかし、これからの未来ある子供たちへ差別のない世界を創っていくことはできる。」
デフサッカーとの出会いによって、深川氏に“創造したい世界”への想いが芽生えた。さらに、当時デフサッカーの全国大会が札幌で行われることになり、深川氏に北海道代表のコーチの打診が。その活躍は新聞やマスコミにも取り上げられるなど、活動は広がっていった。
2011年2月。自分自身の活動に新たな境地を見出したくなり、コンサドーレ札幌を離れる決断をした深川氏。そして講演やイベント、サッカー解説などを通じて活動を展開しようとした矢先、東日本大震災に見舞われた。
笑顔を失っていた時期
イベントや試合は軒並み自粛の嵐となり、予定していた活動も先が見えない状態に。家族を養っていかなくてはいけない責任に頭を抱え、眠れない日々が続いた。そんなとき知人が声をかけてくれたのは、関東にある大学サッカー部のコーチの話だった。藁にもすがる思いで、単身北海道を離れた深川氏。食いつないでいける安堵感とは裏腹に、中途半端で終えた仕事の数々、デフサッカーのみんなを置いてきてしまった裏切りの念が後ろ髪を引いた。
慣れない土地での一人暮らし。不慣れな炊飯で、ときにはインスタントラーメンを食べながら、まだ新米の大学サッカーチームの強化に力を入れる日々が続いた。今でも忘れられないのは、父の日に多くの家族連れで賑わうショッピングモールを訪れたときのこと。楽しそうに買い物をする家族を眺めては、北海道にいる妻や娘の顔を思い出し、単身の我が身を噛みしめるしかなかったという。
しかし、チーム強化の成果は思うようには上がらないまま、就任2年が経とうとしていた。結果が出ないことに苛立ちを募らせながら、選手たちに厳しい練習を課す。部員たちはついていけないと次々に辞めていく。新一年生が入学し、また部員が増えるものの、練習を課しては辞めての繰り返しだった。
「今思えば練習の厳しさよりも、指導の声かけは吠えるように怒鳴り散らすような、厳しい指導方法が原因だったと考えている。次第に指導者たちからも笑顔が消え、叱咤ばかりの時間が増えていった。」
勤務は早朝始発から終電まで。帰宅後は翌日の洋服を着て、髭を剃ってから寝る毎日だ。休みもほとんどない。その頃の深川氏の肉体と精神は、とうに限界を過ぎていたのだろう。すべてを擦り減らしながら任務を全うしようとしていた矢先に、ある事件が起きた。
彼の居場所を自分がつくる
朝7時15分頃、いつものように電車を降りて大学に向かうと、パトカー30台ほどがサッカー場の周りを囲っていた。そのとき、深川氏の後輩コーチから「事件に巻き込まれた」と連絡が。その後も何度か連絡するが繋がらない。規制された門の外でしばらく呆然としていると、サッカー部のクラブハウスの中から警察官に両脇を抱えられた彼が出てきた。彼にかけられた容疑は、自動車によるひき逃げだ。
日々積み重なるヘッドコーチとしてのプレッシャーに耐えられずにいた深川氏は、一番下っ端の後輩コーチである彼にも強く当たっていた。命令、時間厳守は当然のこと。事件前日の夜、彼は仕事が終わった後に自家用車で東京へ出ることになる。飲酒を伴う会食を電車で向かおうとしていたが、深夜まで及んだ雑務に仕方なく自家用車で向かった。そして、お酒が覚めぬまま早朝の練習に間に合わせようと車を走らせ、その帰路で人をはねてしまったのだった。クラブハウスから出てきた彼の表情は、深川氏を恨んでいるようにしか見えなかったという。そして、彼には実刑が処された。
この一件で、さらに追い詰められたのはチームだけではなかった。深川氏も次第に精神的にバランスを崩し始め、チームから離れることにした。「今の自分は精神的におかしい」と、自ら精神科受診を申し出た。しかし精神科にかかるには、何らかの「症状」を証明するものがなければ初診は難しい。病院や医師に対してどんなに訴えても取り合ってもらえず、最後は渋々外科にまわされた。
外科では24時間心電図で脈拍を測り、不整脈が見られたということで、やっと「要診断」の結果を手にした。重苦しい待合室で、うつむき無言で座る30名ほどの受診者の中、長く順番を待った深川氏。ようやく呼ばれ、担当の医師に「自分がどれだけ頑張ってきたのか」「どんなに理不尽な扱いを受けてきたのか」と思いの丈をぶちまけた。約4ヶ月間に渡って、ここに至るまでの日々の不満や自己中心的な考えを漏らし続けたのである。そして4ヶ月後、ふと気づくことがあった。
「(後輩の)彼は、今も刑務所に入って服役中だ。もしかしたら、それは彼ではなく自分だったのかもしれない。」
いつもの診察で、深川氏は「もしかしたら自分も人に当たったり、理不尽なことをやったりしていたのかもしれない。」と思いを漏らした。これに対し、精神科の先生は次のように答えたという。
「深川さん、ようやくスタートラインに立てましたね。大丈夫です、早い方ですよ。」
思い返せば診察のたび、先生は「深川さん、楽しいことを考えなさい。楽しいことの創造や笑顔が、精神の安定や回復に繋がりますよ」と話してくれていた。深川氏は今の自分自身を見つめ直し、気持ちを整理するためにブログを開始。先生も深川氏の再出発を後押ししてくれた。
それから4年後に、後輩の彼から出所を知らせる手紙が届いた。そこには「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」と綴ってあったという。深川氏は、すぐ「一度、電話をください」と返信した。彼にはずっと謝りたかったのだ。数日後に彼と再会し、二人で話すことができた。
今、深川氏が活動する理由の一つに彼の存在がある。彼と再びサッカーに関われる場所を作り、共に社会に貢献すること。彼が背負う罪を深川氏も償いながら、大学コーチ時代に苦しい思いをさせてしまった選手たち、大学関係者へ謝罪の思いをつなげられたらと考えているのだ。
みんなが笑顔になれる社会を創る
「自分が今何をすべきで、何をしたら、そこにいる人が喜んでくれるのか。みんなが笑顔になることは、当たり前のようで当たり前なことじゃない。現に自分と出会った事で(後輩の)彼には地獄を味わわせてしまった。だからこそ自分の中で(原因を)整理して、二度とこのようなことが起きない社会を創りたい。そのためには、『自分が、自分のやりたいように、とことんやれるようにする。』そんな環境が必要だと痛感した。」
深川氏はこの思いから、大学コーチを退任後に個人事業主として『深友(ふかとも)企画』を立ち上げる。そして、「みんなが笑顔になれる場所づくり」をスタートした。
個人事業主になった後、サッカー関係各所からコーチの打診も届いた。中には以前関わりのあった、障がい者サッカー日本代表コーチの話もあったという。しかし、障がい者スポーツは金銭が発生しづらい、いわゆるボランティア感覚が強い。深川氏は今後の発展を望むためにも、「善意に頼った発展は望めない」と訴えた。しかし、そのほとんどは反発する声ばかりだったという。
しかし一方、共感のメッセージを送る人物もいた。それは、CPサッカー(脳性マヒ者7人制サッカー)に関わっていた松村健一氏(現・埼玉県CPサッカー協会法人スタッフ)。彼との出会いをきっかけに、深川氏は障がい者スポーツにより深く関わっていくようになる。
SNSを使って活動の発信もしたが、“いいね”やコメントは多数寄せられるものの、そのほとんどは仕事には繋がらなかった。そのときに気づいたのが、「仕事は使ってもらうのを待つんじゃなく、自分から頼みに行かないと繋がらない」ということ。それから縁ある場所に自ら足を運び、とにかく人に会いに行って話を聞き、そして聞いてもらった。そんな行動が一つ一つ実を結びはじめ、深川氏に北海道デフサッカー理事への就任依頼が寄せられた。それまで肩書きなどは気にせずにいたが、ここから活動に興味を持ってくれるきっかけが広がっていく。愛知県豊明市で障がい者・障がい児にたくさんのスポーツをする機会を生み出すため、「放課後等デイサービス・ぴぃす」を経営する志水宏司氏とも出会い、現在も共に活動している。
差別のない平和な世の中を目指して
深川氏の活動は、さまざまな障がい者スポーツイベントとして全国に拡がりつつある。例えば北海道函館市では道南建業株式会社の坂本学氏と共に、「ダウン症親の会」の「小鳩会」とのイベントを月に一度実施。また、北海道視覚障がい者連盟会長の島信一朗氏と走るブラインドマラソンでは伴走者を務めるなど、地域との繋がりも深くなっているようだ。そして全盲の島氏からは、次のような言葉を受け取った。
「50年、100年経っても差別はなくならないかもしれない。でも、友さんのような活動をしてくれる人がいたら、その後の世界は変わる可能性があると思えてくる。」
深川氏の今のテーマは“永遠“。その思いを、次のように話してくれた。
「時代と共に自分がいなくなっても、今の子どもたちにもこの活動や想いは繋いでいける。誰だって、いつ・どこで・障がいのある人と関わるときが訪れるか分からない。もしかしたら明日、自分が障がい者になるかもしれない。だったら、やっぱり差別のない平和な世界を創っていきたい。」
現在、深川氏が見据えているのは会社の創設だという。自分の価値を認め高めてくれたように、障がいのある人たちがより高い価値を見出し、輝ける場所を創っていきたいという考えだ。例えばサッカー指導者になることも、その一例と言えるだろう。
引退後から今までを振り返り、深川氏は「現役時代は一番ブランド力があるとき。しかし、そのことに選手たちは気づいていおらず、それが問題だ。」と語る。そして、それはまさに自分のことだとこう話した。
「会社が何かしてくれるのではなく、自分で作っていかなきゃ。自腹を切って、お金がマイナスにならないコンテンツがあるのならどんどん勧める。『あっちもこっちもやるな』って言う人がいるけど、あっちもこっちもやってみなきゃ分からない。できなかったら、今はその能力が自分にないと思って違うことをやればいい。縁がなかったと思えばストレスにならないでしょ。」
深川氏の言動には、すべて自身の「経験」が土台にある。そして、その経験をどんなことに繋げられるのか、常日頃から考えているのだ。引退後、見失いかけていた自分の価値を見出してくれた人々へ、今度は深川氏がその価値に磨きをかけてお返しをしているようにも見える。基盤が築かれた今、深友企画から型にはまらないオリジナルのコンテンツが無数に飛び出してくる日が待ち遠しい。
深川友貴(ふかがわ ともたか)
1972年7月24日生まれ。北海道室蘭市出身。北海道室蘭市でサッカーを始め、その後は地元・北海道のサッカー強豪校である室蘭大谷高等学校で1年生よりレギュラー。3年生ではU-18日本代表。高校卒業後は国士舘大学に進学し、在学中にバルセロナオリンピック代表に選出される。大学卒業後はセレッソ大阪へ加入し、1998年にコンサドーレ札幌へ移籍。2001年シーズン終了後に札幌から水戸ホーリーホックへ移籍し、その後2002年に現役を引退した。
現役引退後、2003年からはコンサドーレ札幌のU-18コーチを皮切りに障がい者サッカーやさまざまなコーチを経験。2015年に「深友企画」「ふかともインクルーシブLab」を立ち上げ現在に至る。
[著者プロフィール]
たかはし 藍(たかはし あい) |
スポーツメディア「New Road」編集部
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