「人類がフルマラソン(42.195キロ)で2時間を切ることは可能か」この疑問には、すでに答えが出ている。東京オリンピックでマラソン2連覇を成し遂げたエリウド・キプチョゲ氏(ケニア)が、2019年10月12日の「イネオス1:59チャレンジ」で1時間59分40秒を記録しているからだ。それでは、キプチョゲのようなトップクラスのマラソンランナーたちの身体は、一般人とどこが違うのだろうか。最近、このことをテーマにした論文(*1)が発表された。
*1. Physiological demands of running at 2-hour marathon race pace.
この研究は、2015年と2016年にオレゴンのナイキ本社で行われた。フルマラソンの2時間切りに挑戦したプロジェクト「Breaking2」に参加した、16人のエリートランナーたちを研究対象にしたもの。そのメンバーにはキプチョゲ氏も含まれている。
目次
フルマラソン・2時間9分台のランナー16人を観察
今から30年前の1991年、アリゾナ大学のマイケル・ジョイナー教授がフルマラソン2時間切りの理論的な可能性について研究した論文(*2)を発表した。
*2. Modeling: optimal marathon performance on the basis of physiological factors.
ジョイナー教授はそれを可能にするランナーの条件として「VO2 max(最大酸素摂取量)」「乳酸性作業閾値」「ランニング・エコノミー」の3要素を挙げ、それぞれに要求される数値も述べている。さらに気候やコースなどの外的要因が最適となった場合に、人類が達成できるフルマラソンの最速タイムを1時間57分58秒と予測した。
今回ご紹介する研究は、フルマラソン2時間切りを現実に視野に入れたランナーたちを生理学的に分析した画期的なものだ。これだけの人数の競技アスリートに、長期間の研究へ協力してもらう例は稀有に近い。研究対象となった16人は、全員がフルマラソン2時間10分未満のタイムを持っている。なお、論文で公表されたデータはグループ全体のものであり、キプチョゲ氏個人の数値は明らかにされていない。
ランナーに求められる3つの要素を組み合わせた総合力
結論から言うと、エリートランナーたちはジョイナー教授が挙げた3つの要素すべてで条件をクリアしてはいなかったものの、それぞれで高いレベルの数値を組み合わせて持っていた。
ジョイナー理論でフルマラソン2時間切りに要求されるVO2 maxは84 ml/kg/minとされていたが、16人の平均値はそれより低い71 ml/kg/minだったとのこと。VO2maxは大雑把に分類すれば普通の人で40~50、ちょっとしたスポーツマンなら50~60、競技者レベルのランナーなら70を越えることもあると言われている。つまり、この16人のVO2 max数値は優秀ではあるが、超絶的なわけではない。また、ジョイナー理論では乳酸性作業閾値(血液中の乳酸濃度が急激に上がり始めるポイント)をVO2 maxの85%としていたが、16人の同数値はそれよりやや高く、83.5%から92.3%の間だった。
酸素を体内に取り込む能力(VO2 max)は必ずしも超人的な高さでなくても構わないが、乳酸性作業閾値はかなり高い。そんなランナーの姿が見えてくる。16人はフルマラソン2時間のペースをVO2 maxの88%で走ることができた。研究チームはマラソンで成功するための身体的条件として、個々の生理学的要素を別々に捉えるのではなく、それらを組み合わせた総合的視野で考えるべきだと結論で述べている。
サブ2時間10分ランナーたちの身体データ
論文で明らかにされている、16人の身体データの平均値は以下の通りである。
- 年齢:29歳
- 身長:170cm
- BMI: 19.9
- 体脂肪率:9%
- 最大心拍数:毎分190拍
BMI (kg/m2) から逆算すると16人の平均体重は約57.5 kg。当然ではあるが、やはりエリートランナーはかなり痩せてはいる。しかし病的というほどではない。世界保健機関(WHO)が規定する「痩せすぎ」のBMI値は18.5未満であるから、16人のBMI平均値は普通の範囲に収まってしまうのだ。また、最大心拍数の平均値も、簡易計算式(220-年齢)で求められる一般的な成人の数値と変わらない。あまりにも普通過ぎて、拍子抜けするくらいである。
こうしたデータから、人類の限界に挑む彼らの凄さはどうしても伝わってこない。それでも現実に、マラソンの世界記録は伸び続けている。他の要因としてランニング技術やシューズ性能の進化もあるだろう。
「イネオス1:59チャレンジ」(*3) で人類初のフルマラソン2時間切りを達成した直後、キプチョゲは「私は多くの人に伝えたい。どんな人間にも限界はない」と述べた。彼らが先天的に超絶した身体の持ち主ではないのであれば、人類のマラソン記録はまだまだ伸びる余地があるのではないだろうか。
[筆者プロフィール]
角谷剛(かくたに・ごう)
アメリカ・カリフォルニア在住。米国公認ストレングス・コンディショニング・スペシャリスト(CSCS)、CrossFit Level 1 公認トレーナーの資格を持つほか、現在はカリフォルニア州内の2つの高校で陸上長距離走部の監督と野球部コーチを務める。
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