日本のオリンピック候補選手のメディカルチェックには、「内科」「整形外科」「歯科」の3つが義務づけられている。もし練習や大会で歯痛があったら、痛みで集中力が落ちたけでなく、練習や大会どころではなるだろう。実際にそのようなトラブルに見舞われないよう、普段から治療やケアは大切だ。
そこで、実際の症例や必要なケアについて、スポーツに特化した専門的知見を持つ日本スポーツ歯科医学会認定医・藤巻弘太郎先生に、アスリートの口内トラブルやケアの大切さ、ポイントなどを伺った。なお、藤巻先生はアスリートのさまざまな課題に向き合うためにも、悩みの一つでもある睡眠について日本睡眠歯科学会評議員を務め、スポーツ医療・睡眠医療を歯科領域から展開している。
目次
アスリートは一般の人に比べて歯のトラブルを抱えやすい
スポーツ歯科は総合診療科の1つでもあり、歯科全般の知識が必要です。また、スポーツ競技の特性や環境への知見、さまざまな他職種との連携も求められます。スポーツ歯科で行われるのは、以下のようなものです。
- スポーツする人の歯科検診の実施
- 競技性を考慮した治療やケア
- スポーツ外傷の予防、治療、ケア
- マウスガードの作製 など
一般的な人と比べると、アスリートやスポーツする人はお口の中のトラブルを抱えやすい傾向があります。その理由は、練習や大会、試合を優先にしてしまったり、多少の痛みがあっても耐えて治療を後回しにしてしまったりすることです。
極端な例ですが、歯が一本なくても、練習や試合ができるのならそのままプレーをしてしまう人もいるくらいです。実際、過去に「虫歯はなく、小学生の頃から一度も歯科医を受診していない」というテニスプレーヤーの男性がいました。しかし検診すると、28本中(親不知を除く歯の本数)12本の虫歯があったのです。本人は痛みがなく気づいていませんでしたが、トラブルがいつ発生してもおかしくない状況でした。
また、お口のトラブルは練習や試合のパフォーマンス低下を招きます。それを防ぐためにも、お口のケアは意識して行う必要があるのです。
歯の環境を悪くするスポーツの習慣
なぜ、お口の中のケアが必要なのでしょうか。その目的には、歯や歯茎などの痛みや炎症を予防すること、食事の際に美味しくしっかりご飯を食べられることなどが挙げられます。もしトラブルが生じた場合、日本にいる場合はまだ良いかもしれませんが、海外遠征等なら治療やケアはより大変になるでしょう。ですから未然に防ぐためにも、歯科医と一緒にオンシーズンとオフシーズン、競技特性や練習・試合の環境を念頭に治療やケアのプランを立てるようにしてください。
お口のトラブルが起きやすい原因として、もう一つ挙げられるのがスポーツ飲料などの補給方法です。酸性、中性、アルカリ性を表す「pH(ペーハー)」という単位があり、お口の中は通常pH6.8の中性に保たれています。しかし、pH5.5以下の酸性に傾くと歯の表面のエナメル質が溶けはじめ、虫歯や歯周病にかかりやすくなるのです。スポーツ飲料はpH3.6(強い酸性)で、グレープフルーツジュースなどもpH2.0(強い酸性)。ただし酸性のドリンクがNGなのではなく、注意したいのは飲み方です。
<参考:飲料のpH値一覧>
- 水:pH7(中性)
- お茶:pH6(中性)
- ミルクティー:5(酸性)
- オレンジジュース:pH4(酸性)
- スポーツドリンク:6(酸性)
- 炭酸飲料:0~2.2(強い酸性)
運動時、スポーツ飲料などはこまめに摂取することが推奨されています。スポーツ飲料は電解質も含んでいますので、夏場の熱中症対策には適しています。しかし、こまめな摂取はお口の中を常に酸性にして、虫歯や歯周病の原因を作ってしまうのです。
対処法として、スポーツ飲料を一口摂取したら、その後に水も一口飲んで中性にする、もしくは水でうがいすると良いでしょう。これは、口の中を酸性に偏らせないためです。近年、日本陸上競技連盟ではこれらの意識が行き届き、スポーツ飲料と水を一緒に用意しているケースを目にします。水分摂取や補食にはスポーツをする上で大切な役割がありますが、リスクをきちんと把握しておくことが大切です。
噛み合わせで重心は変わる
アスリートのパフォーマンスは、噛み合わせによって大きく変わります。噛み合わせが悪い人が体のバランスを計り、その後にマウスガードをはめてみると、ふらつく範囲が小さくなって安定します。マウスガードでバランスを調整し、競技特性に合うよう重心を前後に調整することも可能です。
噛み合わせがズレると、バランスを取ろうとして首や背骨、骨盤などもズレてしまい、結果的に体全体に歪みが生じます。すると痛みやコリ、頭痛などの原因にも。このように、噛み合わせは体の安定感や筋力に大きく影響を及ぼすのです。
実際に診察した、陸上競技のハードル選手の例をご紹介しましょう。歯の金属の治療中で、噛み合わせで左側が若干高くありました。「体が右に流れたり、右膝が痛かったりしませんか?」と聞くと、体が右側に流れないように軌道修正するトレーニングを取り入れていたのです。高さの調整をしたところ身体の軸がブレず、その後も怪我もなく競技を続けられていました。
また、噛み合わせは筋力にも影響します。ウエイトリフティング競技の選手で、口を閉じても上下の歯が一部しか当たらない噛み合わせの方がいました。通常なら噛むことで踏ん張ってパワーを発揮しますが、噛むと筋反射で力が抜けてしまうため、その方は顎を開いて頭蓋骨を固定して競技していたのです。そこで、競技用マウスガードを作り、しっかり噛めるように調節すると記録が伸びました。一番喜んだのはその方です。記録が伸びずに悩んでいましたが、「噛み合わせは盲点だった」と話していました。これは、調整によって能力が上がったのではなく、むしろ合わない噛み合わせで低下していた能力が発揮できるようになったという一例です。
私はこのようなサポートを強化するために、柔道整復師や管理栄養士など各分野の専門家と連携したサポート体制を作っています。私はお口の中のスペシャリストですが、食事やお口以外の身体のスペシャリストと組むことによって、アスリートはもちろん一般の方にもより専門的な角度からアプローチが可能す。スポーツ界も、より専門的な医療や科学の視点が入ることで、今後さらなる活性化が期待できるでしょう。
睡眠障害と食いしばり、歯ぎしり
アスリートは睡眠時の悩みも、一般の人より抱えやすい傾向にあります。特徴の一つは、首や頬の筋肉が発達しているため、睡眠時に気道を圧迫しやすいことから無呼吸症候群を起こりやすいことです。また、無意識の食いしばりや歯ぎしりを「ブラキシズム」と言いますが、これは肩こり、頭痛、歯が割れたり欠けたりするなどの症状を引き起こします。
競技中に踏ん張ったり食いしばったりすることが多いアスリートは、このブラキシズムを引き起こしやすく、ストレスによって筋肉が過緊張することで首や頬の筋肉もかたくなります。歯ぎしり、食いしばりは一種の病気です。これらをほぐすことで、歯ぎしりや食いしばりを緩和させることができます。歯科はお口のトラブルだけではなく、睡眠などの悩みにもアプローチできるのです。
家一軒分もある歯一本の資産価値
歯の大切さについてお話すると、「歯磨きは何分すれば良い?」と聞かれることがあります。目安は3分以上ですが、本来は5分以上が望ましく、1分〜2分では私たちプロでもキレイに磨き切れません。ポイントとして歯と歯の間、歯と歯茎の境目を狙って磨いてください。
歯1本の資産価値について、考えたことはあるでしょうか。以前、歯に関する訴訟があり、その際に1本150万円の損害賠償命令が出ました。つまり私たちの歯には、1本150万円の価値があるということ。すべての歯を合わせると4,200万円にもなり、お口の中には一軒の家ほどの資産価値があるのです。
では、そんな歯のメンテナンスに、どれくらい費用をかけているでしょうか。例えば250円ほどの歯ブラシを毎月新品にしても、年間でかかる費用は約3,000 円です。一軒家を維持する費用のように考えれば、一生使い続ける大切な歯に定期的な検診やケアをしてあげるほか、歯磨きにも時間をかけてあげるべきでしょう。
人によって特有のスポーツ環境はありますが、一生歯を使い続けることには変わりありません。ジュニア期から定期的に歯科検診を受けるなど、まずは専門医院の門を叩いてみてください。
藤巻弘太郎 【認定医】
【所属関係】
【クリニック】
|
[著者プロフィール]
たかはし 藍(たかはし あい) |
スポーツメディア「New Road」編集部
読者の皆さまの心を揺さぶる、スポーツのさまざまな情報を発信しています!