東京2020オリンピックで男子マラソンを制し、2大会連続の金メダルを獲得したエリウド・キプチョゲ選手(ケニア)。ゴール前の数百mで見せた、その満面の笑みは記憶に新しい。レース展開がキプチョゲの圧倒的な独走で終始したこともあり、余裕や喜びからの笑みだと思われがちだが、実はそうではない。キプチョゲはこのときに限らず、どのレースでもスタートしてからゴールするまでの間、頻繁に笑みを浮かべることで有名である。前回のリオ・オリンピック、あるいは人類初のマラソン2時間切りを達成した「イネオス1:59チャレンジ」でも、キプチョゲは走りながら何回も笑顔を浮かべていた。
*1. オリンピック公式Youtubeチャンネル:The BEST of Eliud Kipchoge 🇰🇪 at the Olympics
目次
笑顔としかめ面がランニング・エコノミーに与える影響を比較した研究
いくらキプチョゲが史上最高のマラソンランナーであっても、当然ながら生身の人間である。42kmを極限のハイペースで走って苦しくない訳はない。それにもかかわらず、レース中に終始して笑顔を浮かべるのは、あるいはキプチョゲの意図した戦略なのではないだろうか。
そんな憶測を裏付けるかもしれない論文(*2)がある。イギリスの研究者たちが2018年にスポーツ科学サイト『Psychology of Sport and Exercise』で発表した研究では、24人の被験者ランナーが酸素マスクを着用し、6分×4ラウンドのランニングをトレッドミル上で実施。ペースはVO2Maxの70%とし、ラウンド間に2分間の休息を取った。被験者ランナーたちはラウンド毎にランダムな順番で、「A)笑顔を作る」「B)顔をしかめる」「C)意識して手足をリラックスさせる」ことを指示された。
*2. The effects of facial expression and relaxation cues on movement economy, physiological, and perceptual responses during running.
その結果、ランニング中に笑顔を作ったときのランナーは、顔をしかめたときと比べて酸素を使う量がより少なくなったとのこと。ランニング・エコノミーがより効率的になり、主観的な疲労度もより低くなるという興味深い結論を報告している。論文著者らによると、笑顔を作ったラウンドのランニング・エコノミーは、しかめ面をしたラウンドより平均して2.8%高くなったということだ。
2.8%というのは少なく聞こえるかもしれない。しかし、マラソンを2時間10分で走る競技ランナーなら約3分38秒に相当し、レース結果を左右するには十分すぎるほどの違いだ。フルマラソン4時間切りを目指す市民ランナーに至っては、2.8%が生み出すタイム差は約7分になる。
もちろんランニング・エコノミーは、パフォーマンスを構成する要素の1つに過ぎない。単純にそれだけのタイムを、笑うだけで短縮できるというわけではないだろう。しかし、それでも何かしらの効果は期待できると、この研究結果は示唆している。そしてその効果は、厳しいトレーニングで得られる成果と同等かもしれないのだ。
そう聞いて、試してみない理由があるだろうか。何しろ、笑顔を作ることには何も努力が必要なわけではない。そして、それによって失うものは何もないはずだ。
笑顔のリラックス効果は心理面だけではない
人は普通、嬉しかったりリラックスしたりした際に笑顔を浮かべる。しかし、どうやらその逆のケースもあるようだ。つまり、無理やりにでも笑顔を作ることで、気持ちをリラックスさせる作用があるのではないか。そして、その効果は心理面に留まらず、身体から無駄な力みをなくし、結果として運動パフォーマンスを向上させる。それが筆者の推測である。
ちなみに筆者はこれまで、空手、長距離走、クロスフィット、そして野球という異なるスポーツでの指導経験がある。そして、いつでもどこでも「笑え」と指導してきた。つい最近も、ある高校球児の保護者から「あなたほど、いつもニコニコしているコーチは見たことがない」と言われたほどだ。
苦しいときに苦しい表情を浮かべても、その苦しさがなくなるわけではない。これは、緊張する場面についても同じことが言えるだろう。表情が深刻になるほど身体は固くなり、呼吸が乱れてしまう。たとえ、それがぎこちなく引きつった笑いであったとしても、表情を和らげることは心理的にも身体的にも良い反応を生み出すと信じている。「笑う門には福来る」ということわざは、スポーツの世界においても使ってよいのではないだろうか。
[筆者プロフィール]
角谷剛(かくたに・ごう)
アメリカ・カリフォルニア在住。米国公認ストレングス・コンディショニング・スペシャリスト(CSCS)、CrossFit Level 1 公認トレーナーの資格を持つほか、現在はカリフォルニア州内の2つの高校で陸上長距離走部の監督と野球部コーチを務める。
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