小学生の頃に先生から、遠足の終わりで「家に帰って、『ただいま』を言うまでが遠足ですよ」と言われた方は多いのではないでしょうか。これは先生が、「今、あなたたちは遠足が終わって緊張が緩んでいるよ。緊張が解けた直後は思わぬ事故やトラブルに巻き込まれかねないから、家までの帰り道も注意して帰ってね」ということを伝えてくれていたのだと思います。
さて、皆さんは『残心(ざんしん)』という言葉を聞いたことがあるでしょうか。剣道における『残心』とは、相手を打ち終わった後も油断せず、相手のどんな反撃にも直ちに対応できる身構や心構えのこと。今思えば、遠足が終わった後に先生が言っていたのは、この残心そのものだったのだと分かります。
目次
なぜ『残心』が大切なのか
剣道では残心がとても大切です。剣道の試合で相手に勝つためには、自分が相手に対して打った攻撃が、審判から『一本』と認められる必要があります。そして、一本と認められるための条件は次の通りです。
- 充実した気勢
- 適正な姿勢を持って
- 竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し
- 残心あるものとする
条件の最後に「残心あるもの」とあります。剣道では、たとえ相手を上手く打てたとしても、打った後に油断しているような態度を示すと一本にはなりません。以前のコラムで、「剣道では勝者がガッツポーズをしない」という内容を書かせていただきました。剣道の試合で勝者がガッツポーズをしないのは、勝者はこの『残心』を示しているからというわけです。
また、『残心』が大切な理由は、審判に認めてもらうための必須条件だからというだけではありません。剣道は、武士の精神を学ぶための武道です。剣道で手に持っている竹刀(しない)は、武士が持っていた刀そのもの。剣道の試合は競技でもありますが、本来は武士が刀を持って戦うときの戦い方や、その心構えを学んでいるということになります。武士が刀を抜いて勝負するときは命懸けです。仮に、相手に致命傷を負わせたと思っても、相手はまだ反撃してくるかもしれません。刀を持って戦う場合、斬った後も細心の注意を払う必要があります。
映画・鬼滅の刃に見た『残心』の大切さ
武士の斬り合いでは、捨て身になって相討ちを狙うことがあったそうです。捨て身になって相討ちを狙うというのは、自分の命を引き換えにして相手を倒そうという戦い方。捨て身になって相討ちを狙う戦い方を少しイメージしてみましょう。
皆さんは、2020年10月に公開された『劇場版 鬼滅の刃~無限列車編~』をご覧になったでしょうか。当時、一大ブームを巻き起こし、日本歴代1位の興行収入を記録した映画です。私は、映画館に3回も観に行ってしまいました。まだ観ていないという方は、ぜひご覧になってみてください。きっと、大人でも楽しめる作品だと思いますよ。
この映画でもっとも観客を惹きつけた場面の一つが、煉獄杏寿郎と鬼である猗窩座(あかざ)との戦闘シーンです。この戦闘で煉獄杏寿郎がとった戦法が、捨て身になって相討ちを狙った戦い方だと言えるでしょう。そして同時に、鬼の猗窩座には『残心』が無かったのだと思います。もちろん映画の中、アニメの中でのファンタジーですから、実際に同じ戦い方はできないでしょう。ですが、武士は似たような戦い方を目指したのではないでしょうか。
例えば、意図的に自らを斬らせることで相手との距離を詰めて接近し、余力を振り絞って、懐に忍ばせていた短刀で相手を一突き。この場合、自らは斬られてしまうので、致命傷を負うことは必至です。しかし、相手との距離が詰まっているため、確実に相手の急所を狙うことができます。そして、結果は相討ち…具体的に想像すると恐ろしいですね。
剣道の試合は競技としての便宜上、先に相手を打った方が勝ちになります。しかし、競技よりもさらに深く本質を突き詰めていくと、先に相手を打てば勝ちが決まるとは限らないことが分かると思います。ですから、『残心』が大切なのです。
『残心』は日常でも学び取れる
コラムの冒頭では、小学生の遠足帰りを例にして『残心』を考えました。『残心』は剣道から離れた場面でも、有効な身構えであり心構えであると言えます。最近、私は自家用車の点検を受けるため、車の整備工場に行きました。点検が終わり、帰路につこうと車を整備工場の敷地から出庫させるときのことです。整備工場のスタッフは、丁寧に私を見送ってくださいました。さらに、そのスタッフは私の車のルームミラーに、その姿が映らなくなるまで私を見送ってくださっていたのです。これは、スタッフの『残心』と言える行動でしょう。
整備工場の敷地から私を無事に出庫させてしまえば、スタッフは役割を完遂したことになります。しかし、出庫させるという役割が終わっても、私に対して注意を払ってくれている。整備工場では当たり前のサービスなのかもしれません。ですが、もしこのサービスがなかったら、素っ気なくて寂しい気がします。ですから、スタッフに残心があったことで、私は気持ち良く帰路につくことができたと思っているのです。これは私にとって、『残心』の大切さを改めて学んだ出来事でした。
『残心』という考え方を知っていることで、当たり前のように受けていた相手の行為やサービスが実は当たり前ではなく、相手の温かい気配り・心配りであることをより深く感じ取ることができます。『残心』を日常生活に置き換えると、剣道は稽古場所を離れた日常生活においても、稽古が続いているのだな…と思えてきます。
剣道LABO®︎代表・剣道ファシリテーター。自身の剣道経験と映像編集技術を駆使し、社会人剣道家の上達をマンツーマンでサポートしている。東京・神奈川・千葉・埼玉にクライアント多数。全日本剣道連盟 錬士七段。1976年生まれ。