2022年2月に行われた北京五輪で、スキージャンプ女子ノーマルヒルに出場した高梨沙羅選手。結果は惜しくも4位と、2大会連続でのメダル獲得には届かなかった高梨選手に対して、「メイクしている暇があったら練習しろ」とネット上で批判があがった。アスリートの化粧に対する世間の目は未だ厳しい。このほかにも、選手が外見を華やかにすることを否定するようなコメントを見かけることは少なくない。
それに対し、自身も15年間スポーツ界に身を置いていた福岡美波さんは、「アスリートのメイクを批判するのはおかしい」と異を唱えた。福岡さんは現在、心理学的療法である「化粧療法」を応用し、アスリートビューティートレーナーとして活動。メイクを通じてアスリートの競技活動をサポートするための講義活動等を行っている。
メイクすることは、おしゃれ以外にも「コンディションを整えるツール」になると福岡さんは話す。まだ世間には認知されていない化粧の多様なメリットから、アスリートにとって今後どのような効果が期待できるのか伺った。
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メイクで気持ちを切り替えた現役時代
幼い頃から、百貨店の化粧品コーナーが大好きだったという福岡さん。母親のメイク道具を使い、見よう見まねで初めてメイクをしたのは幼稚園のときだったそうだ。小学2年生からサッカーを始めると、高校時代には女子サッカーの名門校である藤枝順心高校でゲームキャプテンとして全国大会に出場。静岡県選抜では全国制覇を経験した。競技に熱中する一方で、相変わらずメイクが好きな女の子でもあったという。
「中学校のときから、本格的にメイクをするようになりました。もちろん、サッカーも必死に頑張っていたけれど、おしゃれもメイクも同時に楽しみたかったんです。」
福岡さんがメイクと競技を最初にかけあわせたのは大学時代。試合前に身だしなみを整えることを、ルーティンの一つにしていたそうだ。
「試合に臨む時は、髪の毛はオールバックにして縛り、眉毛を書くことを大事にしていました。順位を決める試合など、大事な試合のときは、より眉毛をキリっと書いて気合を入れていましたね。オンとオフを切り替えるために、普段と道具を変えてもいました。このように、メイクは競技の前に心を整えることができるものだということに、現役のときに気がつくことができました。」
大学卒業後は競技を引退。就職活動では化粧品メーカーを受けたものの、最終面接で不採用となり地元の企業に就職した。結婚や出産を機に仕事をやめると、2人の子どもの育児に専念すること7年。下の子が幼稚園に入るタイミングで「やっぱり好きなメイクで、誰かを喜ばせたい」と思い、家庭と育児の両立ができるドラッグストアの美容部員に応募。資生堂やコーセー等5社を担当するようになった。
「このときドラッグストアの美容部員になったことは、とてもいい経験でした。百貨店だと一つのブランドしかおすすめできないけれど、私は5社の中から紹介することができた。そのため、『あなたの肌だったらこれが合いますね』という臨機応変な提案ができました。それが、現在の活動にも活きていると感じます。」
一度は諦めていたメイクに携わる仕事につくと、各ブランドの商品やメイクについて研修を受け、その他にスキンケアについても積極的に学びを深めた。ビューティーアドバイザーとして店頭でお客様と直接触れ合う中で、より多くの人にメイクを届けたいという思いが出てきたとき、福岡さんは“化粧療法”と出会った。
心をケアする化粧療法をスポーツ界へ
メイクがもたらす効果は、一般的に「きれいになること」以外は知られていない。しかし、実際にはさまざまなメリットがあるといわれている。メイクを通じて行う化粧療法は、外見だけではなく心のケアを行うものだ。メイクが健康寿命の延長につながるというデータも報告されていて、既に高齢者施設で取り入れられている。また、認知症の予防や鬱状態の改善のほか、副交感神経を優位に作用させることで起こる心身のリラックス効果も認められていることから、精神科障害者施設やリハビリテーション施設などでも活用されているのだ。
美容部員の仕事と並行してスクールに通うと、化粧療法を用いるメイクセラピスト講師の資格を取った福岡さん。介護施設や特別支援学校でも化粧療法を用いたケアを経験した。ご高齢の方に化粧をしたときは、嬉しさのあまり泣いてしまう人もいたそうだ。
「メイクするとき、初めは恥ずかしそうにしているけれど、口紅を少しつけただけで『どこかへ出かけようかしら』と前向きになるんです。また、特別支援学校に行ったときは、肢体不自由の子もいました。自分でメイクはできないけれど、私が化粧をしてから鏡を見せると、ニコって笑うんです。」
心のケアをする化粧療法を現場で学んだ福岡さんは、これをスポーツの現場に還元していくことを決意。2021年からは化粧療法と自身の経験を掛け合わせ、アスリートビューティートレーナーとしての活動を始めた。
メイクを用いて、モチベーションを上げる
実際にアスリートに向けて行う講演では、スキンケアの仕方や紫外線対策の話から始めるそうだ。また、魅力診断による各個人に似合うメイクのレッスンや、選手たちの眉毛メンテナンスを実践するなど、講義内容は多岐にわたる。
その理由として、まずはアスリート間のメイクへの認識を変えていきたいという思いがあるそう。一心不乱にスポーツに打ち込んできたことで、そもそも化粧は自分には関係ないものだと思ってしまう選手も多い。それに対し、ただ派手にすることだけがメイクではないと福岡さんは強調する。
「化粧療法を取り入れたケアは、飾ることだけに重きを置いているわけではありません。スキンケアで自分に癒しを与えたり、本来の自分自身の良さを知ることで魅力を引き出していったりするメイク法もあります。だから、最初は正しいスキンケアの方法を知り、試合が終わった後にリラックスする時間を作ること。また、自分に合う化粧の方法を学ぶことから始めていけたらと考えています。」
実際に講義を受けた女子サッカー選手は、化粧に対する認識が変わったと話す。
「化粧をするときは、バチバチにキメないといけないと思っていました。もともとメイクする習慣がなかったので、自分に合う化粧がわからなかったし、いろんな道具があって難しいと思っていたんです。でも、講座で話していたのは今まで思っていたような顔を変えるメイクではなかったので、化粧に対するハードルが下がりました。これまではメイクをしたいと思わなかったけれど、福岡さんの話しを聞いてからやってみたいと思うようになりました。」
また、もともとメイクが好きで講座を受けた選手は、「試合の時にメイクをしたり、髪の毛を巻いたりすると気合いが入る」と話す。このように、メイクは試合前に安心できるもの、モチベーションが上がるものにもなり得ると、福岡さんは語った。
「私は、メイクは心のユニフォームだと言っています。試合でユニフォームを着るのと同じように、メイクを通して自分の気持ちを高められることを知ってほしいですね。例えば、試合前にアイラインを引くなどのワンポイントメイクでも、オンオフの気持ちの切り替えに繋がる。このことを、選手たちには伝えていきたいと考えています。」
スポーツ界でメイクを不可欠な存在に
現在、女性アスリートを中心にメイク講座を行っている福岡さんは、今後男性へのサポートも視野に入れているという。
「世間では『美容男子』という言葉が出てくるほど、男性もメイクやスキンケアをすることが一般的になっています。しかし、男性アスリートでメイクをしている人はまだまだ少ない。これからは、男女関係なくメイクを取り入れていける時代です。今後は女性だから、男性だからではなく、スポーツ界全体がメイクに対してポジティブな印象をもつことができるように働きかけていきたいです。」
将来的にはアスリートビューティートレーナーという職種を、フィジカルトレーナーと同じようにスポーツの現場に不可欠な存在にしていきたいそうだ。
「試合の前にテーピングをするように、眉毛を書いてあげる。試合後に身体のケアを行うのと一緒に、スキンケアや紫外線ケアを行う。日々のフィジカルトレーニングと同じように、メイクの知識を選手にレクチャーする。化粧を通して、身体と同じように顔や心までケアをしていく存在になり、選手のパフォーマンス向上の手助けがしたいです。」
アスリートはすっぴんでスポーツだけに集中するという考え方は、まだまだ根強く残っている。そのため、メイクすることで選手が叩かれてしまうことも少なくない。しかし福岡さんは、メイクに選手の競技生活にとってプラスの効果があることを根気強く伝えていく。「メイクをしているから集中が足りていない」ではなく、「メイクがあるからこそ集中を高めることができる」という考え方へ。今までのスポーツ界におけるメイクの認識を覆した先に、アスリートがより自分らしく輝くことのできる世界があるのかもしれない。
福岡 美波(ふくおか みは)
アスリートビューティートレーナー。小学2年生からサッカーを始め、15年間選手として活動。高校時代は名門校である藤枝順心高校で、ゲームキャプテンとして全国大会に出場。静岡県選抜では、全国制覇も経験した。ビューティーアドバイザー、メイクセラピスト講師として活動したのち、現在は医療や介護の現場で用いられている「化粧療法」をスポーツ界に取り入れ、アスリートのサポートを行っている。
元女子サッカー選手・なでしこリーガー。現役中はnoteでの活動を中心に発信。引退後はFCふじざくら山梨のマッチレポートの執筆を行う。現在はフリーライターとして活動中。