大阪府大阪市内で、ボクサー・那須川天心選手たちが立ち上げた『天心ファミリープロジェクト』のイベントが開催された。憧れの選手に会えるとあって、子どもたちはいつにない面持ちだったという。このプロジェクトは、那須川選手たちが「養護施設等で生活する子どもたちの明るい未来を考える」ことを目的として2018年に立ち上げた。養護施設で育った子どもたちに、格闘技を通じて内面から鍛えることの大切さ、“自分の居場所探し”をお手伝いしている。格闘技が持つ力で、どのように社会とのつながりを築き上げていけるのか。イベントの様子、そして選手や参加者の声をご紹介しよう。
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短くても、夢のような瞬間が人生を変える
那須川選手の父であり、キックボクシング指導者・那須川博幸氏が代表を務める『TEPPEN GYM』に、小学校低学年から高校を卒業したばかりの約20名の子どもたちが集まった。今回は、那須川選手から直接格闘技の指導を受けられる体験会。一同にどこか落ち着きがなく、那須川選手が登場する瞬間を心待ちにしていた。
入場曲と共に那須川選手が現れ、子どもたちは一気に高揚する。「今日は一日、一緒になって楽しみましょう」と声をかけられると、子どもたちは少し表情をゆるませた。
早速、那須川選手のミット打ち練習のデモンストレーション。力強い攻撃が、流れるようにコンビネーションとなって躍動する。その様子を、子どもたちはじっと見つめていた。そして、那須川選手の「じゃあ、みんなでやってみよう!」という声で実践の時間が開始。子どもたちは見よう見まねで那須川選手の動きに合わせる。リズムよく、小刻みな動きも息が合っていた。それもそのはず。施設の中に格闘技クラブがあり、練習している子どもや日本拳法の指導を受けている子もいた。
基本練習を終え、那須川選手をはじめプロの白鳥大珠選手、風音選手、瞬選手、GUMP選手たちがマンツーマンでミットを持つプログラムに移る。リング中央に待ち構える那須川選手を前に、ゆっくりとロープをくぐってリングの中に入る子どもたち。緊張のあまり目を合わせられない子もいたが、一度開始のベルが鳴れば躊躇なくミットにパンチやキックを打ち込む。子どもたちの勢いに引っ張られるように、那須川選手の表情も柔らかくなっていった。1分間のミット打ちが終わると、子どもたちは小さな肩で息をしながら、お礼をしてロープをくぐってリングを後にした。
将来はキックボクサーになると決意した
サポート役の選手の中に、この『天心ファミリープロジェクト』からキックボクサーを目指す小林裕二さんの姿もあった。2022年に高校と施設を卒業して、現在は働きながらキックボクシングの練習に励んでいる。茨城県の施設にいたとき、このプロジェクトに参加してキックボクシングに触れた。その“カッコよさ”に惹かれ、いつしか憧れから目標へ。高校で進路を聞かれた際には、「プロのキックボクサーになります」と答えたそうだ。
キックボクシングの練習も、このときは本格的に始めていなかった。当然、担任の先生は反対。もちろん、将来を考えてのことだ。しかし、小林さんは思いを曲げず、卒業する頃にはその熱意に先生も押されて先生も応援してくれたという。
「やったこともないキックボクシング。保証もないので、学校からは反対されました。でも、施設のみんなは『それいいじゃん!』って応援してくれたんです。今は、飲食店で働きながらプロを目指しています。」
現在はアマチュアデビューから2戦2勝。一つの出会いが彼の生き方を変えた。
格闘技を始めて、子どもたちの問題が減っていった
日本拳法を教えているという児童養護施設こばと学園の牧野先生は、イベント中に恥ずかしそうにしている子どもたちを、積極的に輪の中に送り出していた。牧野先生が日本拳法を子どもたちに指導する理由に、「外の世界を知って欲しい」という思いがある。そのため、これまでも積極的に外へと出向く機会を作っていた。
「施設内で他のスポーツをする機会もあるのですが、なかなか施設の外に出て行きません。施設の中では強くても、外を知らないと井の中の蛙になってしまいます。日本拳法では、他の道場とも一緒に練習する合同練習に参加させたり、試合に挑戦させたりもしています。」しかし、はじめは『格闘技を教えると暴力的になるのではないか』と、施設内から不安視する声が上がっていました。しかし、実際はまったくの逆。相手の痛みを知って、相手を思いやる姿が多く見られるようになったのです。むしろ、施設内での子どもたちの問題が減っていきました。」
レッスン後には、みんなの前に立って感想を述べる子どもたちが続いた。最初こそ少し消極的だった子どもたちの中に、何か変化が生じたのだろう。15歳の青年も、「キックボクサーを目指し、もっと練習して強くなる」と高らかに宣言した。
さらに、天心選手から全員にサイン入りのグローブのプレゼントも。格闘技に取り組んでいる子どもは「このグローブを使って練習する」と話し、他の子は「飾っておく」とグローブを握りしめる。それぞれが各々の宝物を胸にしていた。
俺も頑張るから、一緒に頑張っていこう
表情が変わっていたのは、子どもたちだけではない。『天心ファミリープロジェクト』の代表・加藤勉さんも、子どもたちの姿を眺めて「これが答え。これがすべてです。」と口にした。加藤氏はNPO法人ピースプロジェクトを通じて、子ども食堂や今回の『天心ファミリープロジェクト』を運営、活動を続けている。多くの格闘技選手をイベントに参加させるなど、格闘技と社会の架け橋を作っているのだ。そして、那須川天心選手も次のように話してくれた。
「子どもたちも楽しそうですよね。普段生きている中ではしないような目をしているので、懐かしいなって思いました。自分が幼い頃、ウルトラマンのイベントで抱っこされて一緒に写真を撮るときとか、嬉しかったなって。そのときのことは、今でも覚えています。このようなイベントは続けていきたいし、学校などに行って子どもたちとの関わりも作っていきたいです。僕は今でも、子どものようにクリエイティブなマインドを持ち続けています。だから、子どもたちにも『ずっとそのままでいて欲しい』と伝えたい。そして、そのままでいいと思ってもらえるような、起点になる人でありたい。世の中の出来事で、いろんなことに左右されることもあるし、マインドがマイナスになってしまうこともある。だからこそ、格闘技を通じて心の強さを持てるようになれば、生きていく上で自然と人として強くなれるんじゃないかな。」
那須川選手は有名になった分、いい意味で知名度を使い、現役中に活動していきたいという。「あの人が言っていたことを頑張りたい」と思ってもらえるよう、自分自身も頑張っていくから、一緒に頑張っていこうよと。誰かの人生のきっかけになれたら嬉しいと、力強い言葉を残した。
スポーツが社会へ与える影響力は大きい。だからこそ、その力をどのように使うのかが、関わる者すべてに問われている。そして、その反響はまた、選手自身にも還ってくる。一人で強くなることはできない。だからこそ、最高のパフォーマンスで人を魅了し、応援してくれる人たちの声を自身の力の源にする。貢献し合う関係を創造して、試合で結果を出し続ける人の強さの理由が分かったような気がした。
たかはし 藍(たかはし あい)
元初代シュートボクシング日本女子フライ級王者。出版社で漫画や実用書、健康書などさまざまな編集経験を持つ。スポーツ関連の記事執筆やアスリートに適した食事・ライフスタイルの指導、講演、一般向けの格闘技レッスン等の活動も行う。逆境を乗り越えようとする者の姿にめっぽう弱い。