運動は体に良いだけではない。長期的には記憶力や学習能力と密接に関連がある脳の海馬が、有酸素運動によってサイズが増えることが医学的に証明されている。また、短時間の運動にも脳の働きを活性化させる効果があることが、いくつかの研究で発見されている。勉強やデスクワークの前に有酸素運動を行うと、体は多少疲れるだろう。しかし、その心地良い疲労感に伴い、脳のパフォーマンスは上げるということだ。
では、その逆に脳のパフォーマンスが下がると、運動能力に影響はあるのだろうか。最近、その疑問にひとつの答えを出した研究論文(*1)が発表された。
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心理的な疲労は耐久力に悪影響を及ぼし、スピードとパワーには影響しない
研究者たちは16人の被験者男女に2種類のセッションを行ってもらった。1セッションは運動前に90分の認識テストを課して心理的に疲労させ、別のセッションでは同じ時間だけ環境ビデオを鑑賞させて心理的にリラックスさせた。その後で行った筋力トレーニングと、20分の自転車タイトライアルの途中経過と結果をセッション別に比較した。
すると、その結果は意外なものだった。走行距離、パワー出力、心拍数変動、そして血中乳酸値などの身体的パフォーマンスには、セッション間に有意の差が出なかったのだ。しかし、心理的に疲労したセッションでは、被験者らは主観的な疲れをより多く訴えた。
身体的に差が生じないのであれば良さそうなものだが、単純にそうとは言い切れない。より疲れを感じやすくなるということは、とくに持久力や耐久力を必要とするタイプのスポーツにとっては大きな意味を持つ。練習であれば早めに切り上げてしまうかもしれないし、試合であればペースを落としてしまうかもしれないからだ。長距離走やトライアスロンなど、耐久系のスポーツを経験したことがある人なら、心理的なムードがいかに身体的なパフォーマンスへ影響するかを実感しているはずである。
運動の前に脳を休める時間を設ける
それならば、運動を行う前には心理的な疲労を取り除くべきだということになる。しかし、それを現実に行おうとすると、決して容易なことではない。学生なら部活動は授業の後に始まるだろうし、仕事を終えた後にトレーニングを行う社会人も多いだろう。それでなくても、スマホやパソコンをいじっているだけで脳は疲れてしまうからだ。
心理学者たちによる別の研究(*2)では、認知能力を求められる作業による心理的疲労感は最低でも20分間は続くということだ。
*2. Persistence of Mental Fatigue on Motor Control.
と言うことは、勉強や仕事を終えた後にすぐ運動を始めるのではなく、その前に30分ほどの心理的な休憩時間を設けることが望ましいようだ。もちろん、スマホやパソコンも遠ざけた方がよいだろうしゲームをするなどはもってのほかである。
具体的には、ウォームアップの時間を少しだけ長く取ることを提案したい。トレーニング前にじっと目を閉じて休む(あるいは環境ビデオを鑑賞する)時間を設けるよりは、ゆっくりと体を動かしながら、それと同時に精神的な準備も行う方が現実的ではないだろうか。ウォームアップの目的は身体的な効果(心拍数を上げる、関節の可動域を広げる、筋肉を温める など)に限らず、心理的なモードを切り換える効果もあることも思い出すべきだろう。
その意味で、ウォームアップに静的ストレッチは不要、むしろ逆効果があるという昨今の定説も、あるいは見直すべきなのかもしれない。静的ストレッチに心理的なリラックス効果があることは、多くの人が感じているだろう。運動前に静的ストレッチをすると、かえって競技パフォーマンスが下がってしまうとする研究は多く、とくに瞬発力や最大筋力には大きな悪影響があるとされている。しかし、それらを多く必要としない耐久系アスリートには、再考の余地があるのではないだろうか。
アメリカ・カリフォルニア在住。米国公認ストレングス・コンディショニング・スペシャリスト(CSCS)、CrossFit Level 1 公認トレーナーの資格を持つほか、現在はカリフォルニア州内の2つの高校で陸上長距離走部の監督と野球部コーチを務める。