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◆楽天・田中 五輪出場を熱望

「心から選ばれるのであれば、選ばれたら断る理由なんてないし、出たいと思っています」。

 

8年ぶりに楽天に復帰した田中将大は会見で、東京オリンピックへの思いを語った。昨シーズンまでヤンキースに所属していた田中は、予定通り2020年にオリンピックが開催されていれば、日の丸を背負うチャンスはゼロに近かった。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大による1年延期と、日本球界復帰というめぐり合わせで、出場へのハードルはなくなった。

 

◆「アマ最高峰の舞台」だった五輪

オリンピックは元々「アマチュア最高峰の舞台」だった。野球が1984年のロサンゼルス大会で試験的に実施する「公開競技」となり、日本代表も初めて出場したときも、その認識は変わっていなかった。大学や社会人から選手を集めてチームを編成。当時の4番は、ヤクルトや巨人でプレーした明治大学の広沢克実だった。メンバーの和田豊(元阪神)や宮本和知(元巨人)らもアマチュアだった。

 

◆第1回大会は日本が金メダル

ロサンゼルス大会には日本を含めて8カ国が出場した。2つのグループに分けて総当たりの予選を行い、勝ち上がった4カ国でメダルを争った。日本は2勝1敗で予選を通過し、準決勝で台湾に延長戦で勝利。決勝で開催国のアメリカを6-3で破り、金メダルを獲得した。

 

◆後にプロで大活躍する選手ずらり

野球は続く1988年のソウル大会も公開競技だった。日本は当時社会人だった野茂英雄(元ドジャース)や古田敦也(元ヤクルト)を擁し、銀メダルを獲得した。1992年のバルセロナ大会からは正式競技に昇格。ただ、メンバーは全員アマチュアで変わらず、小久保裕紀(元ソフトバンク)や伊藤智仁(元ヤクルト)が選ばれていた。日本は準決勝で台湾に敗れたものの、3位決定戦でアメリカを下し、銅メダルを手にした。

 

◆2000年からプロも出場

2000年のシドニー大会からプロの出場が認められた。日本代表24人のうち、8人がプロ。松中信彦(元ソフトバンク)や黒木知宏(元ロッテ)、松坂大輔(元西武)らをそろえたが、4位に終わった。5大会目で初めてメダルを逃した。

 

◆全員プロでも遠い金メダル

雪辱を期した2004年のアテネ大会ではメンバー全員をプロで固め、監督には巨人の長嶋茂雄終身名誉監督が就いた。しかし、長嶋監督が大会直前に脳梗塞で入院し、中畑清ヘッドコーチが代行を務めている。1984年のロサンゼルス以来となる金メダルを至上命題に課したが、準決勝でオーストラリアに0-1で敗れて銅メダルとなった。

 

2008年の北京大会もメンバーはプロのみで編成した。星野仙一監督率いる代表チームには、上原浩治やダルビッシュ有ら後にメジャーで活躍する選手も名を連ねた。そして、そこには田中将大も入っていた。しかし、「日本代表史上最強」ともいわれながら、準決勝で韓国に逆転で敗れ、3位決定戦もアメリカに逆転負け。まさかの4位に終わった。

 

◆東京大会が「最後のチャンス」

野球は2012年のロンドン大会から除外され、東京大会で開催地提案の追加競技として3大会ぶりに復活する。田中にとって、12年前の北京大会の借りを返す「最後のチャンス」となる。

 

「前回北京オリンピックに出たが、悔しい思いをして終わっているので、野球がオリンピック競技からまたなくなってしまう状況なので、自国開催だし、金メダルを取りたいと思っている」。

 

楽天復帰会見で言葉に力を込めた田中。ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で優勝するなど、今や日本の“国技”とも言われる野球。その威信をオリンピックで回復するには、田中の力は不可欠となる。

By New Road 編集部

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